地名:ヴェリア
 この辺からパウロは考えていたルートから外れてしまったのではないか。実際のパウロ行脚はアテネに行っているが本来はローマに行きたかったのではないか。そのためにエグナティア街道でデュルラキュウムへ行き、そこから船でアドリア海を渡りローマに行く予定であったのではないか。しかし州都テッサロニケでユダヤ人のものすごい抵抗に遭い、やむなくヴェリアへ逃走した。しかしここにも追っ手が来て殺されそうになり、陸路でローマへ行くことが不可能であることを悟る。やむを得ず至近の港(ピゾナと言われている)で船に乗りアテネへ逃げたのではないかと思う。実際パウロは相当悔しかったらしく、下記のローマ信徒への手紙にも書いてある。しかし一般的にはパウロの宣教の旅についての本では、余り触れられていないが、このあたりについてはもっと考察があっての良いのではないかと思う。なぜならば、ローマには既に誰かが行って宣教しており、その後紆余曲折があってペテロがローマ宣教の父になってしまっている。使徒言行録はパウロに同行したルカが書いているためペテロについての記録が少ない。例えばトロアスの使徒言行録にもあるとおり「ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」となっていて、誰かがすでに宣教してそのテルトリーが在ったと考えられる。しかしペテロが「ローマ宣教の祖」は少し腑に落ちない。すなわち根っからの田舎育ちで、骨の髄までユダヤ教がしみこんでいるペテロがギリシャ語を話したりして、異邦人を宣教するのは大変無理があるのではないかと考える。

バスの停車場で写真を見せてやっとたどり着いた。味気ない場所であるが、ここにいるとヨーロッパ系の団体が結構訪ねてくる。さすがにキリスト教の祖の記念碑だ。
使徒言行録 17:10〜15
兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。

ローマの信徒への手紙 15:19〜22
また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。

ローマ訪問の計画

こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。